看護師への道と
「看護」を職業とし
確立させ貢献した人

世界の看護指導者について…白衣の天使への憧れ。看護師はハードだけど、やりがいのある仕事。

支えあって生きてゆく

品質確かなビンテージボージョレ ヌーヴォーをご用意しております。当サイトでお探し下さい。

看護師目指すなら…

ナイチンゲールの生涯

近代看護の生みの親は、ナイチンゲールでしょう。「白衣の天使」とも呼ばれたフローレンス・ナイチンゲール。伝記でおなじみのナイチンゲールです。

フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)

1820年5月12日 裕福なイギリス人の地主の両親のもと、両親の2年間に渡る新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれました。フィレンツェで生まれたので、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられました。幼少の頃は、贅の限りを尽くした教育を受けることになりました。

フランス語・ギリシャ語・イタリア語に関しては、ナイチンゲールの姉さんと彼女自身も読み書きができるレベルまでになりました。そして、他の外国語として、ラテン語も学びました。ラテン語は聖書や哲学の勉強の基礎となる語学です。その他にもプラトンのギリシア哲学・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、など、教養を高めるものに関しては、ありとあらゆる教育をうけることになりました。

そのような教育を受けながらも、フローレンス・ナイチンゲールは、貧しい農民の劣悪環境での暮らしぶりを慈善訪問の際に接することによって、次第に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになりました。

ナイチンゲールは、姉が精神を病んだこともあり、姉の看護をするという名目で1851年にドイツのカイゼルスベルト学園(ドイツの病院月学園施設)に滞在します。そこでは看護婦に対しても教育が行なわれていました。そこでナイチンゲールは看護師を志すようになりました。そしてロンドンの病院へ就職することになりましたが、ロンドンの病院では給料はなしで、生活費は父親から出してもらっていました。

その後、ナイチンゲールは婦人病院長となりましたが、イギリス各地の病院状況を調べることによって、専門的教育を施した看護婦の必要性を感じるようになります。その当時の看護婦の立場は、病院で病院の世話をするという召使と同じようにみられていたからです。召使と同じという事は、専門の知識などいらいと思われていたということです。

自宅で学習、生涯学習。

クリミア戦争

1854年に、クリミア戦争(1853年~1856年)が勃発すると、ロンドンタイムスの特派員ウイリアム・ハワード・ラッセルからのレポートによって、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いがいかに悲惨か・・ということを伝えられることになります。そのレポートがなされると、一気に世論は沸騰することになりました。そして、ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固めたのでした。

事態を重くみた戦時大臣のペンブルック伯爵は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼します。11月に、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かいました。

そこでナイチンゲールが見たものは、ひどい有様でした。兵舎病院は極めて不衛生で、官僚的な縦割り行政の弊害から、必要な物資すら供給もされていませんでした。さらには、現地のホール軍医長官たちは、縦割り行政を楯にして、看護婦団の従軍を拒否までしました。。ナイチンゲールとシスターたち、職業看護婦たちは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけました。そして、まず便所掃除を始めることから病院の中へと割りこんでいくことにしました。ナイチンゲール達に味方が全くいないわけではありませんでした。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対して、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるようにと命じました。ハーバート戦時大臣はこの女王からの知らせをすぐにこれを戦地に送り、病院内に張り出しました。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵たちはとても元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となりました。

白衣の天使

それからナイチンゲールは、スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍します。後に判明することになりますが、着任後に死亡率は上昇 (42%) しました。『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転することになりました。その当時、ナイチンゲールは、夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」と呼ばれたり、働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれました。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来しています。クリミア戦争当時、負傷した兵士たちを看護するナイチンゲールの影にキスしたという伝えから「ナイチンゲール症症候群」という言葉まであるほどです。(ナイチンゲール症症候群は、世話する者と世話をされる者の間に愛が生じる心理の事をいいます)

ナイチンゲール自身は、そのようなイメージで見られることを喜んでいませんでした。ナイチンゲール自身の言葉として、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」という言葉が知られています。

ナイチンゲールが従軍後の1855年に、戦時省と陸軍省が合併することによって、若干ですが事態は好転することになりました。新陸軍省は衛生委員会を組織して、現地へ調査団を派遣することになりました。そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令します。この命令の実施によって、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%に死亡率が下がったことが後に判明します。兵舎病院での死者の原因は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったといういことが、後に推測されます。

この期間もナイチンゲールは、陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれていました。もっとも大きなトラブルでは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯にして、ホール軍医長官がその活動を制限したことです。最終的には、この部分を修正することで、女王名の入った新たな辞令が届くことになりましたが、この事例が届いたのは、1856年の講和直前のことになりました。

統計学の先駆者として

1856年3月30日パリで平和条約が締結されました。そして、4月29日クリミア戦争終結。7月16日病院の最後の患者が退院しました。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わなかったので、8月6日に、スミスという偽名を使用して人知れず帰国したほどでした。11月帰国後ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結します。そして、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始めるのでした。そしてそこで、数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出しました。

この状況分析によって、イギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としています。これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革へとつながることになりました。

ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことにいとわかったのですが、ナイチンゲールをあまりにも広告塔として利用され続けたこともあり、戦争終結後は有名人として扱われるのをとても嫌がるようになりました。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかったほどです。

ナイチンゲールのこうした態度に影響されかどうかは分かりませんが、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していました。そのため、委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残しています。

しかし、ナイチンゲールは赤十字社活動には関わっていません。それどころか、ナイチンゲール自身は、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していました。なぜなら、構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜いていたためです。この考え方は、マザー・テレサと同じです。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」という考え方があったからだといわれています。

超人的な仕事ぶりのナイチンゲールは、必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢によって、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示しつつ、果敢な姿勢の彼女に、恐れの感情もいだくようになりました。オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」 Little war office とあだ名されることになりました。

クリミア戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校がつくられることになりました。校長には病院の婦長ウォードローバーが当たりましたが、運営に関してはナイチンゲールも協力しています。その後、同様の各種の養成学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護婦養成体制が整い始めることになりました。

私たちの印象では、看護師の地位を高めた看護師としてのイメージが強いのですが、実際にナイチンゲールが看護師として負傷兵たちに奉仕したのはクリミア戦争従軍時の2年間だけです。ナイチンゲールは、象徴的献身や統計に基づく医療衛生改革で名声を得たといえるでしょう。ナイチンゲールはクリミア戦争に従軍してした37歳(1857年)の時に心臓発作で倒れてしまい、その後は慢性疲労症候群に由来すると考えられる虚脱状態に悩まされることになりました。死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごすことになり、本の原稿や手紙を書くことが活動の柱となりました。そして、81歳の時には完全に失明。90歳に永眠しますが、故人の遺志により、墓石には「F. N. Born 1820. Died 1910.」と、イニシャルと生没年だけが記され、ハンプシャー州の聖マーガレット教会に葬られています。

彼女の大きな功績は、イギリスにおける統計学の基礎を築いたこと。看護に初めて統計学を持ち込み、データの視覚化を行った事です。(専門家ではない女王が見やすいように)

ナイチンゲール病棟

『病院覚え書』(Notes on Hospitals)に図面入りで記されているナイチンゲールが考案した病院建築は、今ではごく当たり前の病棟だと思いますが、ナイチンゲールのデータと理論によって裏付けされてなされています。ナイチンゲール病棟は、当時の聖トーマス病院をはじめとして、世界中の病院建築に取り込まれることになり、実際の建物として現実的に機能しています。

  • 病室は間仕切りなしの200畳の広さをもつワンルーム。
  • 患者のベッド1つにつき、1つの窓がセットされる。
  • ベッドは病室の左右にそれぞれに15ずつ並んでいる。
  • 窓は高い天井まで延びた3層の窓。
  • 一番高い3層目の窓を常時開放しておくことで、病室の換気を行う。

この他にも、患者一人の療養空間として相応しい面積、ベッドの高さやベッドとベッドの間の距離についても、理想的な計算値が述べられています。

ナイチンゲール誓詞 「ナーシングセレモニー」「戴帽式」で読まれるものです。

  • われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わんーーー
  • わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。
  • われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、
  • 悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。
  • われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを努むべし。
  • わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、
  • わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人に洩らさざるべし。
  • われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。

(ナイチンゲールの偉業をたたえ、その教えを基として、1893年にアメリカ・デトロイトの看護婦学校長夫人を委員長とする委員会が、「ヒポクラテスの誓い」にならって作成したものです。)

ナイチンゲールの著作

ナイチンゲールは150篇ほどの膨大な量の著作を残しています。代表的なものに『看護覚え書』(Notes on Nursing)があります。これは広く看護教育の場では古典として読み継がれている本です。

著作のほとんどは『ナイチンゲール著作集』に収録されています。(全三巻 1974、1975、1977)

ナイチンゲール著作の中で主要なもの

  •  1851年 看護についての著作 カイゼルスウェルト学園によせて
  •  1858年 女性による陸軍病院の看護
  •  1860年 看護覚え書
  •  1865年 インドの病院における看護
  •  1867年 救貧病院における看護
  •  1876年 貧しい病人のための看護
  •  1880年 病院と患者
  •  1882年 看護婦の訓練と病人の看護
  •  1893年 病人の看護と健康を守る看護
  •  1863年 病院についての著作 病院覚え書
  •  1871年 病院についての著作 産院覚え書
  •  1858年 英国陸軍の保健についての著作 英国陸軍の保健
  •  1863年 英国陸軍の保険についての著作 インド駐在陸軍の衛生
看護師になりたい!

2013 看護師への道と「看護」を職業とし確立させ貢献した人.jp