看護師への道と
「看護」を職業とし
確立させ貢献した人

世界の看護指導者について…白衣の天使への憧れ。看護師はハードだけど、やりがいのある仕事。

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日本で看護師の発展に寄与した人

新島八重(にいじま やえ)

1845年(弘化2年)12月1日に、会津藩の砲術師範だった山本権八・さく夫妻の子として誕生しました。会津戦争時には断髪をして、男装して家芸であった砲術をもって奉仕しました。若松城籠城戦で自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦しました。会津戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚。結婚後、会津若松城籠城戦を一緒に戦いましたが、敗戦後に捕虜となった夫と離ればなれとなり、以降二度と再会しなかったと思われます。実際に離婚手続きが取られたのは明治4年(1871年)旧暦12月のことです。

新島八重 京都へ

1871年(明治4年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って京都へいきます。その翌年1872年、兄の推薦によって京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となりました。

兄の元に出入りしていた新島襄(同志社大学を興した)と知り合い1875年(明治8年)10月に婚約します。その当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどをし続けて、圧力をかけていたために、京都府は婚約直後、突如八重を女紅場から解雇しました。

自宅で学習、生涯学習。

新島 襄との再婚

明治9年(1876年)1月3日に再婚しました。その再婚は、京都では初となる日本人同士のキリスト教式の結婚式でした。女紅場に勤務していたときの経験を生かして、八重は同志社の運営に助言を与えていきました。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は、お互いを補うという似合いの夫婦でもありました。レディファーストが身についていたので、夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見てレディファーストを知らない世間からは悪妻と評されていました。

同志社英学校でも、八重は戊辰戦争の際に、会津藩を攻めた薩摩長州出身の学生を冷遇したりと、軋轢を生む行動をおこしていました。問題を起こした兄嫁を、兄や襄が許しても、八重は許さずに家から追い出したりといった行動は、西洋の感覚を身に着けていながら、武士の誇りと道徳にとてもこだわっていたので、周囲と軋轢を生むことになりました。

このため、同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰(明治・大正・昭和と3つの時代に渡る日本のジャーナリスト)に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)のような女性がいる」と強く非難されるほどでしたが、そんな非難に対しても全く動じなかったと伝えられています。

そんなある意味、図太い神経の持ち主の八重ですが、夫婦仲はとても良かったそうです。夫の襄はこの時期にアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と書いていることからも、夫婦仲の良さが窺えます。

1890年(明治23年)、襄は病気のため急逝しました。襄の臨終の床で、蘇峰に過去の非礼を詫びられることにより、八重は和解しました。

前々年の1888年(明治21年)5月、襄は彼のよき理解者であり、協力者であった奈良県吉野の山林事業家で自由民権運動の財政的後ろ盾でもあった土倉庄三郎に「小生ノ病症は早ヤ心臓病ニ相違無之、早晩小生ハ此之病之為ニ斃るへきハ覚悟せねばならさる由」(『新島襄 人と思想』・晃洋書房」より原文のまゝ)などと書簡で縷々述べ、自分亡き後の学校のこと、八重の生活のことについて協力を求めています。

襄と八重、2人の間には子供はいませんでした。更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えましたが、この養子とは疎遠だったといわれています。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも八重は、性格的にそりが合いませんでしたので、同志社とも次第に疎遠になっていったといいます。

看護の場へ

襄が亡くなった1890年(明治23年)、八重は日本赤十字社の正会員となりました。1894年(明治27年)日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍します。40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めます。1896年(明治29年)、その時の功績が認められます。

皇族以外の女性として初めて、勲七等宝冠章が授与されました。

その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て、看護学校の助教を務めることになり、1904年(明治37年)日露戦争の時には、大阪の陸軍予備病院で2ヶ月間、篤志看護婦として従軍します。その功績によって勲六等宝冠章が授与されることになりました。

これらの功績により1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されました。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて86歳で亡くなりました。八重の葬儀は「同志社社葬」として4,000人もの参列者がありました。明治時代に、とてもエネルギッシュに生き抜いた女性であるといえるでしょう。

新島八重 を題材にしたテレビドラマ

新島八重が主人公
  • 1985年11月1日   テレビ朝日 演じた人:栗原小巻 「女のたたかい 会津そして京都」 原作:『新島襄とその妻』
  • 2013年大河ドラマ  NHK    演じた人:綾瀬はるか「八重の桜」
新島八重が登場するテレビドラマ
  • 1974年  朝日放送  演じた人:三浦真弓  「暗闇仕留人」で 第19話「乗せられて候」
  • 1986年  日本テレビ 演じた人:田中良子  「白虎隊」
  • 2007年  テレビ朝日 演じた人:中越典子  「白虎隊」

新島八重 の逸話

  • 晩年、雨などに濡れている女学生を見ると無言で傘を差し出す姿が見られた。次代を担う女性を大切に思っていたというのが分かるエピソード。
  • 夫襄との夫婦仲の良さを物語るエピソードがたくさん残されています。京都新島旧邸にある襄の書斎は襄が亡くなった後、八重が死ぬまでの42年間そのままの状態に置かれていました。
  • 悪妻、鵺(ぬえ)、烈婦と評されていました。
  • 悪妻と呼ばれる。- 夫を「ジョー」と呼び捨てにして、車にも夫より先に乗っていました。これは新島夫妻が互いの尊重の上で、男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものですが、明治時代は男尊女卑の時代です。明治時代においては世間からは「悪妻」と評されていました。
  • 鵺と呼ばれる。 - 同志社英学校の生徒にも襄を軽んじていると映っていました。当時学生の徳富蘇峰に「鵺」と公衆の面前で罵倒されました。
  • 烈婦(れっぷ・烈女と同じ意味で、信念を貫きとおす激しい気性) - 勤務していた京都女紅場が経営難に陥った際には、女学校の補助金を増やすよう当時京都府参事であった槇村正直にたびたび直談判しました。そのような行動から、世間より「烈婦」と評されました。
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